傷つくくらいなら、もう誰のことも見てやらない、

最近思う、傷つくくらいならもう誰も私のことなんて見ないで。
私も誰のことも見ないから。
誰かに肩入れして悲しい気持ちになる事と誰ともかかわらない夜を寂しく思うこと、天秤にかけたとき、どうしても後者の方が楽に思えるような考え方の人間になってきた。年を取るにつれて、どんどん感情が鈍っていく。
男女に関係はなく好きという気持ちをすり減らしていけばいくほど生きやすい。関わりあう前に軽く線を引いておけば、裏切られてもHPは減らないし裏切った際の罪悪感も払拭しやすい。

 

こういうのが大人ってなんだっけ。私が思ってた大人と何か違う。
感情を鈍らせて、鈍感になる事が大人なのか?
そして何にも気が付かないふりをして社会に適合していくのが大人なのか?
それが偉いのか、生きやすく見ないふりをどこまで上手にできるかが大切なのか、
私は大人になればもっと何でもできると思っていた。

 

私ってもっと何でもできる人間だと思っていた。
それなのに視野が広くなると、私は無力だと実感することばかり。世界なんて変えることはできないんだ、と思い知らされることばかり。
場所が虫かごか地球か、どちらかってだけで、私は結局蟻と同じぐらいの優位性しかない。何のために生まれ、何のために死ぬのか。最近、何が正義で何が悪なのかさえ分からなくなってきている。
そもそも正義や悪を仮定することに意味があるのだろうか。
正常と異常を区別することは難しいことだと思う。私たちが思い描く正常はもしかしたらものすごく気持ちが悪いものかもしれない。思うがままに生きている人こそ、一番人間らしく、何にも縛られない正常かもしれない。だって、なにかに縛られている環境化で何十年も暮らしている人は異常ではないのか?もっと素直に生きていいのではないのか、と思う。

 

今日も刻一刻と時間が過ぎていて、確実に死に向かっているにもかかわらず私たちは平然と息をして歩く。死ぬ元気はないから生きてる。「ただそれだけ」なのか。
いや、「ただそれだけ」なのだ。
その「ただそれだけ」に意味をつけたがる。それが人間なのかもしれない。
私も生きることに理由をつけなければ生きていけない。少なくとも今の自分には将来の夢などという小賢しい小言を作ることで生きる理由にしなければならない。今が苦しいのなら光を作ってじっと耐えしのぐ、その時が来るのをずっと待ってる。
苦しい先に見た光が美しい??
光はいつ見ても美しいんだ、これもまた人間が苦しみに何か特別な価値を付けて正当化しようとしているものの一環としか思えない。なるべく苦しまないように、頑張らないように、生きたほうが良いに決まってる。毎日が楽しみと幸せに満ち溢れた世界であっていいに決まっている。
それは、意味もない生きるに、わざわざ意味を見出すのと同じこと。
私は今日も何もないことに意味を付けてどうにか生きてる。そうしなければ私の存在する価値がなくなるから。価値がなければ死なねばならないから。私はそういう考え方だから。
私には何もないと思ったときはが私が一番死にたくなる時。
それは決して他人が決めるものではなく、私が決めること。
自分自身で自分に価値がないって思ったらもう死ぬしかない。
なんとか自分に価値を見いだしてここまで生きてきたが、年々絶望の淵に追い詰められて残骸絶壁の下の波立海が私を呼んでいるような気がする。